この街大スキ武蔵小杉

コスギーズ

武蔵小杉で活躍する人を紹介します!

2024.04.05

「音楽のまち・かわさき」20周年記念CM出演 本江志織さん

コスギーズ!とは…

利便性や新しさだけでなく、豊かな自然、古きよき文化・街並みもある武蔵小杉は「変わりゆく楽しさと、変わらない温かさ」が共存する素晴らしい街です。そんな武蔵小杉の街の魅力をお届けするべく、この企画では街づくりに携わり、活躍している人をご紹介していきます!

 

「音楽のまち・かわさき」20周年記念CM出演 本江志織さん

 

「人と演奏して初めて楽しかったのがベース。音楽がわたしを世界につないでくれる」

 

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川崎は「音楽のまち」です。

 

そう言われて「そうだ!そうだ!」と言ってくださる方がどのくらいいるでしょうか?

 

かくいう私も、川崎に移り住んだ18年前に「音楽のまち・かわさき」というキャッチフレーズを初めて目にして、首をかしげていました。「いったい川崎市のどこに音楽の要素があるの?」と。

 

思えば、その頃は「音楽のまち・かわさき」はまだ2歳だったのです。

2004年にミューザ川崎シンフォニーホールが川崎駅の西側に生まれた時、川崎市は今までの工業都市のイメージのみならず、音楽が街中にあふれる文化的な街づくりに力を入れるため、「音楽のまち・かわさき」という取り組みを始め、そのフレーズも産声をあげたのでした。それからの力の入れようと言ったら!

 

そして「音楽のまち・かわさき」は今年、めでたく「二十歳」になりました。

 

今回は、その「音楽のまち・かわさき」と同い年のベーシスト・本江志織さんに音楽やこのまちの文化との関わりについて、じっくりお話を聞いてみようと思います。

 

音楽のまち・かわさき 20周年記念CM

 

今年、「音楽のまち・かわさき」の取り組みが20周年を迎えるにあたって、成人を迎えた5人の音楽家が出演するCMが制作されました。

 

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昨年の11月に、そのCMに出演するアーティストを選ぶオーディションが大々的に行われて、本江志織さんはそのうちの1人として選出されました。

 

他には、ヴォーカリスト、ヴァイオリニスト、トランペット奏者、日本舞踊家が選出され、ミューザを中心に始まった「音楽のまち」の取り組みがクラシック界だけではなく、多様なジャンルの音楽へと広がっていったことを表しているようです。

 

志織さんたちの出演するそのCMは、2月からtvkや、川崎市のサイネージ、Youtubeチャンネルなどで放映されているので、ぜひ皆様もチェックしてみてくださいね。

 

それでは、CM出演者の中では「やんちゃパート担当」だという志織さんのお話を聞いていきましょう。

 

お父さんの影響で始めた音楽

 

本江志織さんは、川崎市高津区生まれ。

150センチと小柄ながら、ネックの長いエレキベースをノリノリで刻む姿はすごく楽しそうで、存在感があります。

共働きのご両親と志織さんの3人家族。近くに住むおばあちゃんにもお世話になりながら、のびのびと育ったそうです。

 

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「子どもの頃は、おばあちゃんの家に預けられたり、美容室をしている友達の家に居させてもらったり。一人っ子なので、マイペースでした。遅刻はしないけど、教室を移動する時にはなぜか、みんなと違う動きをしていたり…」

 

音楽とは、どういう出会いをしたんでしょうか?

 

「お父さんがロックバンド好きだったので、家や、旅行の車の中ではいつもそういう音楽がかかっていました。6年生の時に初めてロックバンドのライブを聴きに行ったんですが、ベースがとても格好良くて憧れました。」

 

中学校では、少しでも音楽がやりたいと吹奏楽部へ。バストロンボーンを担当していたそうです。

中2のお年玉で、念願のベースを購入。音楽活動への夢が膨らんでいきました。

 

機材の充実している高校を選ぶ

 

高校は、川崎北高校へ進みました。学校を選んだ理由はずばり「機材が充実していたから」。

軽音部の部室が2部屋もあり、とても上手い先輩にも恵まれたそう。

 

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「軽音楽部では、ワンオクとか、マイヘアイズバッドとか、普通に高校生が好きそうな曲をカバーして演奏していました。文化祭のステージが目標、という人が多かったんですが、私は高校生の軽音大会に出てみたかったんです。みんなを口説き落として、2年生の時に出場を果たしました。」

 

そのまま活動に脂が乗り、3年生の時にも…と腕を磨いていた時に、やってきたのが、コロナ禍。

大会は出られなくなってしまいましたが、Twitterなどネット上に自分たちの音源をあげたり、さらに腕を磨いたり。音楽とは離れず、むしろ心の拠り所であったと志織さんは言います。

 

コロナ禍は収束せぬままに高校を卒業しましたが、その間にネットにあげていた動画から、また新たな道が志織さんの前に開けていきました。

 

CD発売… そして

 

ある日、志織さんがTwitterにあげていた音源を聴いたミュージシャンから連絡がありました。

 

一緒にバンドを作って新たな挑戦をしないかというお誘いでした。

その人は、大会の時から志織さんのベースに注目していたのだそう。

 

「あのバンドのベーシストだよね、って声をかけてもらえたのはすごく嬉しかったです。2021年から本格的に新しいバンドの活動が始まりました。」

 

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志織さんの住む中原区では、音楽のまちづくりに先立つ2000年から、市民を中心にした音楽とダンスの祭典「In Unity」が行われていました。

しかし、コロナ禍の中で、ステージ発表ができなくなり、またバンド活動そのものができないでいるミュージシャンを応援しようという取り組みとして、「カワサキ学生バンドオーディション」が行われました。

 

最優秀バンドには、タワーレコードグランツリー武蔵小杉店からCDの発売がされることになっていました。

志織さんたちのバンドは、川崎市の音を集めた実験的な音楽でオーディションに出場し、見事、最優秀賞をゲット!CD発売の運びとなりました。

 

「一気に知名度が上がり、メンバーも少し意識が変わりました。」

 

それから2年間の活動を、必死で頑張ってきた志織さん。

自分たちの音楽を探す中で、もっとこうしないといけない、という縛りが生まれ、売れるにはどうしたらいいかを考えているメンバーと自分との間に方向性の違いが生じていくのを感じました。

 

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「初のワンマンライブに向けて頑張ってはいたんですけど…、有名レーベルの方から連絡をいただいて、話が進んでいるうちに、自分の中でぷつんと糸が切れてしまうような出来事があり…、2023年の7月にバンドを抜けました。」

 

楽しくなくなった。それがいちばんの理由だったそうです。音楽を通じて実現したいことはみんな少しずつ違います。

メンバー間でそれぞれの想いを尊重できなくなった時、袂を分かつことになるのは、有名なバンドなどでもよくあることですよね。

 

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「眠れなかったり、起きられなかったり、辛いこともいっぱいあったけれど、やっぱりバンド活動はできてよかったと思います。1人で練習するのも好きだけど、誰かの音と合わせて初めて楽しいのがベースという楽器だから。これからも、何らかの形で人と一緒に音楽をやっていきたいと思っています。」

 

家族の存在

 

志織さんには、友達のような関係でいつも一緒に楽器屋さん巡りをしてくれるお父さんと、同じように仲良く、地域での活動を積極的に行なっているお母さんがいます。

 

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「お母さんの仕事は子育て支援を地域で広げることなんですが、音楽をやる前から、よく母の仕事の現場についていっていました。」

 

志織さんのお母さんは、以前コスギーズ!に登場した堀由夏さんと一緒に「NPO法人みどりなくらし」を運営する、本江弘子さんです。保育士と幼稚園の先生をしていた経験も持つ、子育てのエキスパート。志織さんも自然に子どものいる環境に身を置いていました。

 

「子どもと話したり、子どもたちのためにウクレレを弾く母親が楽しそうだといつも思っています。わたしも子どもたちの学童でバイトをしたことがあるんですが、楽しく遊ぶよりもケンカの仲裁に時間がかかっちゃって、母のようにはいきませんでした。」

 

子どもたちの前でベースを演奏したことはないけれど、お母さんが参加している音楽を楽しんでいるサークルに、タンバリンなどで参加することもあるそうです。

 

CMに出演

 

「音楽のまち・かわさき」のCMへの出演のきっかけは何だったのでしょうか。

 

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「お母さんの知り合いが、SNSに投稿していたんです。「20歳になったばかりで、お母さんが地域活動をしているベーシストさん、オーディションがあるから参加してみたら?」って書いてあって、明らかに私のことだ!って。 川崎で音楽をしている同じ年くらいの人たちに会ってみたかったこともあり、すぐに応募しました。」

 

地域での繋がりから、新たな道が開けていったのですね。オーディションでは、知った顔もあり、緊張もしたけれど、自分を素直に出すことができたということです。撮影はどんな感じだったのでしょうか。

 

「5人全員が女の子でした。ズームで衣装の打ち合わせなどがあり、それぞれにゆかりがある、あるいは好きな場所で撮影していただきました。私は武蔵新城のカフェ・SHINJO GEKIJOで撮りました。カメラの方もとても楽しく盛り上げてくれて、自分らしさを前面に出すことができたと思います。」

 

二十歳になって

 

二十歳になって変わったことはありますか?

 

「お酒が飲めるようになったことは、嬉しいですね。普段はあまり話せない、自分の中で考えているようなことを、お酒の場だと素直に話すことができます。 両親とも飲みます。お父さんとは新しく出た機材の話ばっかりですけど。」

 

志織さんたちが、私がママを務めた日替わりバー「新城サカバー」でカウンターをぐるりと取り囲んで、楽しく飲んでいってくれた日のことを忘れられません。志織さんとお父さん、幼馴染の青年、志織さんがアルバイトをする溝ノ口劇場のギタリスト、志織さんが通う整体の先生、という地元つながりのメンバーで、家族ぐるみ、地域ぐるみのあたたかい環境の中だからこそ、今の志織さんが育ったのだということがよくわかりました。

 

その溝ノ口劇場で、志織さんファミリーは先日、家族バンド「チームほんごう」としてステージデビューを果たしました。

 

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「演奏をしながら左を向くと、弾き語りをする母と、一生懸命ギターを弾く父が目に入りました。ちょっと緊張した表情にも見えて。こうやっていつもと違う両親の姿を見られるのは新鮮で、家族で楽器をやるのも楽しいな、と思いました。家族に共通の趣味があって、ステージをみなさんに披露できるのは幸せなことだと思います。」と志織さん。

 

家族3人でのバンド演奏。なんて素敵なんでしょうか。誰よりも熱心に準備をしていた、というお父さんは、志織さんが生まれた20年前に、こんな日が来ることを想像していたでしょうか。

あるいは、川崎で子育てをする人たちの強い味方であるお母さんは、自分が娘と一緒に立つステージを、想像できたでしょうか? 

 

音楽は「時間芸術」と言われます。流れていく時間の中で、その瞬間に鳴っている音と立ち会うことでしか成立しない芸術です。

それは主に、一つの完成された楽曲やその演奏を指していうことなのですが、この日溝ノ口劇場で奏でられていたのはきっと「二十年の歳月をかけて演奏された」ひとつの音楽だったのではないか、とふと思いました。

 

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そこに3人の音が重なるまでには、時間が必要でした。「音楽のまち」と志織さんがともに重ねてきた二十年という歳月が。

志織さんが生まれてから、今までずっとお父さん、お母さんの中で鳴り続けてきた音、川崎という街のなかで、さまざまな人が日々のなかで奏でている音色、成長した志織さんが意思を持ってかき鳴らすベースの音、音楽を楽しむ観客のクラップ、歓声。

すべてが奇跡のように織り重ねられ、そこにいたすべての人に感動をもたらしました。

 

すべては音楽がつないでくれた

 

「すべては音楽がつないでくれた」と志織さんは言います。

 

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「音楽がそこにあったから、いろいろなことが起きました。大好きだったバンドを壊したのも音楽だし、新たに立ち上がる力もまた音楽がくれました。音楽をやっていたから世界と繋がれたし、音楽のあるところに人も集まってくれる。共通の話ができて、場も盛り上がって、仲良くなれるんです。

本当に、いいものだなあって。」

 

志織さんが鳴らすベースの音は、CMの中でも全体を繋ぐ役割をしています。志織さんを勇気づけた音楽の「繋がっていく力」が、きっとこれからも、たくさんの人を繋げていくことでしょう。

 

「音楽のまち・かわさき」の二十年が、まるっとそのまま詰め込まれているような、志織さんの音楽。志織さんとお話をしていて、音楽活動をしているわたしも、川崎市に住んで良かった、という思いが湧き上がってきました。あらためて、志織さん、音楽のまち・かわさき、二十歳おめでとうございます。

 

この先もずっと、地域に音楽の楽しみと繋がりを広げていってくださいね。

 

<プロフィール>

 本江 志織(ホンゴウシオリ)

2003年生まれ、川崎市出身

鎌倉女子大学 家政学部に在学中

父、母、うさぎと暮らす。

趣味はベースとお菓子作り。

 

 

ライター プロフィール

Ash

俳優・琵琶弾き

 

「ストリート・ストーリーテラー」として、街で会った人の物語を聴き、歌や文章に紡いでいくアート活動をしている。

旅とおいしいお酒がインスピレーションの源。

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