アーティスト 奥田雄太さん
コスギーズ!とは…
利便性や新しさだけでなく、豊かな自然、古きよき文化・街並みもある武蔵小杉は「変わりゆく楽しさと、変わらない温かさ」が共存する素晴らしい街です。そんな武蔵小杉の街の魅力をお届けするべく、この企画では街づくりに携わり、活躍している人をご紹介していきます!
「画家っていうのは、僕にとっては魔法使いと同じくらい、ファンタジーな存在だった」
幼い頃に抱いた夢を語るとき、アーティスト・奥田雄太さんはそう言って笑いました。
長身で、恵まれた体格。子どもの頃から身体が大きかったため、郷里の愛知県犬山市で駆け回っていた小中学生の頃は、サッカー、水泳、バスケとたくさんのスポーツに親しみました。スポーツは、テレビをつければプロの選手たちが目に入り、実際にそれで「食べて」いる人たちがいることが子どもでもわかります。しかし、身の回りに絵を描くことを仕事にしている人はいません。画家といって思いつくのは、ピカソやゴッホのような、教科書に載っているような外国人ばかり。だから、奥田さんにとって絵を描くことは、いつも2番目に好きなことでした。そして、それは職業にするようなものではありませんでした。
「実家が商売をしていたので、金銭感覚は小さい頃から身についてるんです。忙しく働く父親の背中も見ているし、父と飲食店にいくと、待っている間にゲーム感覚でメニューの価格をチェックしたり、回転数から売り上げを計算してみたりしていました。」
そんな奥田さんにとって、自分が描いた絵を売って生計を立てる、ということは、おとぎ話の中の世界でした。中学校から高校へと進み、好きなスポーツはいつも変化しました。高校では器械体操部に所属し、主将も務めました。1番好きなものはその時によって変わったのに、2番手にはいつも「絵を描くこと」がありました。高校卒業が近づくにつれ、「生業」としての選択肢を考えた時に、それは「ファッション」や「デザイン」という実用性を帯びた産業の形を取りました。高校を出た奥田さんはファッションの世界へ進みます。
一枚の絵が売れる瞬間を見る
「モードの反逆児」と呼ばれたアレクサンダー・マックイーンに憧れて、イギリスへ留学しファッション業界で生きていく自信と「箔」を得ます。TAKEO KIKUCHIに入社して、着実にデザイナーとしての技術も磨かれました。同じ会社で知り合った女性と結婚し、奥さんの郷里に行った時のことです。義父からひとりの人を紹介されました。自分と年の頃も変わらないその男性は「画家」だといいました。「東京で個展をやる時には観に行ってやってくれ」と義父から頼まれ、個展に足を運んだ奥田さん。そこで、絵が売れる場を目にします。ファンタジーだった画家という存在が、そのヴェールの中から立ち現れた瞬間でした。
「猛烈に羨ましかったです。一枚の絵の上に『自分』を表現したものが、誰かの心を動かして買われていく… 心底嫉妬しました。家に帰ってもその場面が忘れられなくて、これは、逆に希望なんじゃないかと思った。嫉妬の炎は、燃料がないところには燃え上がらないから。」
その夜には、奥さんに「絵を描きたい」と話した。奥さんは「いつそれを言い出すのかな、と思っていたよ。」と答えたといいます。
(写真:CHILLのアトリエで 奥田雄太さん)
「企業のデザイナーの世界では、3年、5年、7年で新しい場所へ転職してスキルアップしていく、というような定説もあり、中途半端な転職を考えていた時期でもありました。でも、そんなことをしても何も変わらないでしょ、と。当時はまだ新婚だったんですが、奥さんが『一年ぐらいは私が食べさせてあげるから、がんばってみたら』と背中を押してくれた。」
奥さんと、そのご実家は理解がありましたが、大変なのは自分の実家のほうでした。家業を継がない息子に留学資金を出してくれた父親から「それは職業なのか」と詰問され、「正直自信はなかった」と振り返ります。他のことならば単純に算盤をはじけましたが、アーティストの生計は未知数でした。「本気でやるつもりなら、初年度に前職と同じだけ稼いでみろ、それができないならきっぱり諦めろ」そう言われて、「絵描きとして稼ぐ」新しい人生がスタートしました。
必要なものは魔術ではなくロジックだった
「もちろん、絵は売れなかったんですよ、でも絵で前職と同じ金額はとにかく稼ぎ出した。」
奥田さんはその当時を振り返ります。自分がファッションの仕事を辞めたことを知っている知人は、仕事を振ろうとしてくれましたが、絵に関係のないことで稼いでも意味がありません。「稼ぐ」という一点に集中すると、その資質と感覚はすでに血の中に巡っていました。
(写真:奥田雄太さん)
「仮説を立てて検証するんです。友達が100人個展に来てくれて、絵が1枚も売れないのはなぜなのか。友人たちはグッズは買っていく。ポストカードとか、シールとか、1万円のTシャツでも買ってくれる人もいる。でも3万5千円の絵は買わない。それはそもそも、お金が出せないのではなく、絵を買うという行為自体に迷いがあるのではないか、と考える。それならば、カレンダーを作って、常に自分の絵が家に飾られている状態を作り、慣れてもらう。」
ポストカードのようなグッズを作るのは邪道だと思っていましたが、そこに必然性があるならば格好はつく、と合理的に考えました。折しも奥田さんが描いていたのは「Colourful Black」というコンセプトでモノクロの中で色彩を表現する作品群でした。観た人がモノクロの中に感じた色を、塗り絵のように自分で塗るためにポストカードを買っていきます。このシリーズは人気を博し、奥田さんは3年間でポストカード約4万枚を売り上げました。奥田さんの絵が家にあることに慣れた人たちは、次第にその原画を買う顧客へと変わっていってくれました。
(写真:奥田さんのアトリエがある武蔵新城のCHILL 手前が colourful blackシリーズの作品)
「新しい場所で開く個展に来てもらうためにはポスティングも自分でしましたけど、ただポスティングをするんじゃないんです。打ち合わせの1時間前に現地について、庭を綺麗に手入れしている家や、高級車が止まっている家などに狙いを定めて、その家に自分の絵が飾ってあることを想像しながらポスティングしていく。そのチラシにもナンバリングをしておいて、持ってきてくれたらグッズと交換できるようにしておくと、誰が来てくれたかがわかるでしょう。それで集計もして、ポスティングの効果を数値化しました。」
絵を売るためにグッズを制作するのと、グッズを売るために絵を描くのは全然違います。常に冷静に自分の目的と手段を見つめ、論理的に「絵で稼ぐための方法」を考えました。
「自分が絵で食べる、なんていうことが奇跡に近いことだとわかっていたからこそ、地道に販路を作る努力を怠らない、というより怠れないんです。」
感謝と循環
Colourful Blackで手応えを得た奥田さんはモノクロの作品をその後も多く発表していきました。その作風が大きく変化したのは、2020年のコロナ禍です。父との約束を守るためにがむしゃらにスタートをした時からずっと、1年間に30以上の展示をこなし、立ち止まって思考する時間はありませんでした。でも、コロナ禍で10本の展示が一気に白紙になり、自分と対話して考えることができました。
「最初は『最悪だ』と言ってばかりいたんですよ。展示をやらないと絵は売れないし、それこそ食えない。なくなったものばかり勘定していたんですね。でも、よく考えたら何も無くなってなかった。妻がいて、子どもも生まれて。与えられたものはたくさんある。当たり前になっていたことに改めて感謝しなければ、と思いました。気持ちが上向けば、行動も上向く。今描くべきものは、これだ、とピンときました。」
当たり前に自分に与えられたものへの感謝の気持ちを絵に表現しようとした時、それは自然と明るい色彩を帯びた花束のイメージになった。「With Gratitude」(感謝をこめて)は、奥田さんの新しい世界を開いた。
(写真:With Gratitude)
「発想は突然降って湧くものではなく、全てはグラデーションのようにもともと自分の中にあったものです。もともとファッションのカラフルな世界にいたからこそ、その反動から色彩をモノクロで表現しようとした Colourful blackが生まれた。花から始まる食物連鎖を描いたBeautiful foodchainなど、何百枚と描いていたモノクロの絵があって。コロナという壁にぶつかった時期に少しでも前向きでありたいという気持ちが、感謝の花束をカラーで表すことにつながって『With Gratitude』ができた。すべては循環していくんです、Circulation、これが今の僕が到達したテーマです。」
言語化して、公式を作り、次につなげる
現在、武蔵新城にある奥田さんのアトリエには20人を超えるアシスタントがいます。
「絵が好きだから、ひとりで何時間でも絵を描いていることはできるんです。でも、それでは次につながっていかない。アートにはマーケットがあり、それは自分たちの生きている池のようなものです。僕はまだ35歳で、元気だからその池を好きなように泳ぎ回ることはできる。だけどこの先何十年か、この世界で生きようと思った時、その池をより大きく、住みやすくすることは、とても大切なこと。そのためには、後に続く若いアーティストが自立して一人一人、そのマーケットを広くしていくことが必要なんです」
(写真:武蔵新城のシェアアトリエ「CHILL」で制作をする奥田さんのアシスタントメンバー)
アートという業界は、特別なものだと思われがちです。でも奥田さんは、本来のやるべきことは中小企業の在り方と何ら変わるところはないといいます。
「アート業界は、情報が極度に少ないんです。他の業界では、みんなが知恵を出し合って、知見を共有して全体で成長していく。独立したとき、自分がした経験を後進に教えることで、同じ過ちを犯さなくなり、思想や技術が情報として蓄積されていくので、業界自体が発達していく。一方アートは個人事業だと思われているので、一人一人が苦労したことを簡単に人に教えない。コネクションを共有することもない。それじゃあ、みんな同じ穴に落ちて、同じことを繰り返すだけ。発展していかないんです。」
奥田さん自身がアーティストとしてスタートしたときにも、どこにも技術以外の絵で食べていく情報はありませんでした。これでは、良いアーティストが育つはずもありません。奥田さんは、仮説と検証を繰り返し、自分のしてきたことを言語化することに努めました。
「なんとなく売れてしまっている人は、自分が売れている理由がわからないんです。僕はその都度仮説を立てて、それを検証してきたので、いま自分がどうしてこの位置にいるのかを、順序立てて話すことができます。自分の経験を、公式にして若い世代に伝えていきたい。自分自身が当時誰かにそうしてほしかったことを、後に続く子たちにはしてやりたい。」
その公式とは「これをすれば必ず食える」いう成功の方程式ではなく、アーティストとしての姿勢や思想のようなものだといいます。例えば、奥田さんが挙げる公式のひとつには「絵描きは絵が上手いから売れるわけではない」というものがあります。絵が上手い人しかいない中で、頭を出したいと願うならば、時間は守る、メールには返信する、というような当然のことがきちんとできるというパラメータが必要になるのです。
(写真:武蔵新城のシェアアトリエ「CHILL」で制作をする奥田さんのアシスタントメンバー)
「アーティストだからいい加減でいいものなんてひとつもない。フリーランスになれば、当たり前だけど大変なんです。発信、営業、販売… 製造業でいうところの川上から川下まで、自分でやらなきゃいけないんだから。結局はそれができた人が『食える』んです。」
奥田さんは自分が一生涯で描くことができる絵の数も試算しました。もっと大きな絵も描きたい、もっとたくさんの人に届くように作品数を増やしたい、そう考えたときにチームを作り、アシスタントと一緒に成長する未来を描く、という選択は自然な流れでした。
「どこまでならアシスタントに任せても自分の作品と言えるのか、ということも、自分の作品を徹底的に言語化することで検証してきました。例えばこの絵を描くときに右上から線を引いたら、なぜ今僕は右上から線を引いたのか、それがどうして美しいと考えるのか、自身でライターを雇って自分に質問してもらって、言葉にして記録して伝えてきました。」
奥田さんは自分が一番得意なことだからこそ、アシスタントに作業を振ることができるのだそうです。新しい領域こそ自分自身がじっくりと向き合います。そうすることで、自分自身の「伸び代」と向き合っているのでしょうか。アーティストに定年はなく、成長の限界もないのだから。得意以外の新しいところにこそ、クリエイティビティを輝かせてくれるきら星が眠っているのかもしれません。
「早く行きたいなら1人で行け、遠くまで行きたいなら集団で行け」というアフリカのことわざを思い出します。奥田さんは決して生き急ぎません。より長く、より多くの作品を作り続けるために、自身のメンタルを安定させて、考え続けて、仲間と一緒に砂漠のような道を進んでいきます。そこにはギャンブル性はありません。もともとが過酷な場所で、不確実な賭けは命を縮めるだけです。
「砂漠に水を求めて進むのみです。途中で隣に森を見つけても、そこに入ってはいけないんです。」
日本のアート界、川崎とアート
川崎に住んで制作をすることについて尋ねると、奥田さんは肯定的に答えました。
「純粋に便利ですよ。自然があるのに、都会に近いですし。子どもも近いところで育てられる。これはアーティストにとっては大事なことなんです。」
奥田さんのアトリエは、武蔵新城の、もともとサウナだったビルをリノベーションして作られた複合アート施設「CHILL」の中にあります。湯船だったスペースを区画してアーティストたちが入居するスタイルのシェアアトリエですが、奥田さんはここを気に入り、区画が空くたびに借りるスペースを増やしていったので、現在は奥田さんのチームともう1人のアーティストのみが利用しています。
(写真:お風呂場をリノベーションしたCHILLのアトリエ)
「僕はいま、初めて立体作品を作っていて、広い場所が必要なんです。企業や行政がアーティストを支援するとき、展示する場所を提供してくれます。でも、同時に制作する環境も作ってもらわないと、そもそも作品が創れないんです。特に関東で、都心に近いところでは…」
作れば作るほど、貧乏になってしまうアーティストがいます。「原価」という考え方を持ち併せないからです。でも、原価を考えていてばかりでは「アート」ではなくなってしまいます。優先順位は常に、自分がそれを作りたいという衝動。それはビジネスの論理とは相反することもあります。
絵のように形の残るものはまだ取引がしやすいですが、インスタレーション、音楽や演劇など、「経験」を通じて体感するアートはさらに、ビジネスの論理では成り立ちません。だから制作自体を支援することが必要になるのです。アーティストがいる街、格好がいいと思える街にする為には、長い目で文化を育てる場所、アーティストも住み続けられる環境を作って欲しい、と奥田さんはいいます。そこからアーティストが育ち、世界に知られるようになれば、街にとっては広告塔になります。岡本太郎みたいに(笑)。
「日本のアートは、長く世界から取り残されていましたが、僕のように商売人としての考えを持つアーティストも増えてきて、今少しずつ注目され、変わってきています。アーティスト同士は、世界に挑戦していく友(ライバル)であれたらいい。競合するのではなく、一緒に世界に訴求して、高め合って、マーケットを広げていくような…」
(写真:立体作品に取り組む奥田さん)
鑑賞者の目線に立って作品を創るようになったという奥田さんには、いつも父の声が聴こえています。
「片方が徳をして、もう片方が損をするのは商売じゃない。売ってくれてありがとう、買ってくれてありがとう、という言葉が自然に出るのがいい関係なんだ」
作品を創る側、観る側。どちらもが自然に「ありがとう」といいたくなるようなアートとの出逢い。それは人と人の心を通わせ、社会を循環させます。世代を超えて、つながっていきます。
魔法ではなく、徹底した自己観察と、その言語化によってアーティストは、その命が尽きる日まで作品を制作し、世界をCirculationの渦に巻き込んでいきます。
プロフィール
奥田 雄太 ⁄ OKUDA Yuta
1987年愛知県生まれ
日本とイギリスにてファッションデザインを学んだのち、ファッションブランド「TAKEO KIKUCHI」でデザイナーとして活動。2016年にアーティストに転向。
国内での個展やグループ展に精力的に参加し、製作と発表を続けキャリアを築き上げている。
コロナ禍をきっかけに、当たり前と感じていたことが実は特別な出来事だったと気づき、「感謝を作品にしたい」という思いから「with gratitude」をテーマに作品を製作している。
中原区武蔵新城のサウナをリノベーションしたCHILLがアトリエ。
ライター プロフィール
Ash
俳優・琵琶弾き。「ストリート・ストーリーテラー」として、街で会った人の物語を聴き、歌や文章に紡いでいくアート活動をしている。旅とおいしいお酒がインスピレーションの源。